青春シンコペーションsfz
第4章 ハンス対ルーク!(2)
「ああ、撃ってしまった……。僕は……人を……」
放心状態の井倉の胸にすがって妹が泣いていた。
「井倉君、大丈夫ですか?」
ふいに肩を掴まれてびくっとしたが、それはハンスだった。いつの間にか、ハンスは井倉が落とした銃を持っていた。
「先生……! 僕はそれで人を撃ってしまいました。もし、あの人が死んだら……僕は人殺しになるんですか?」
――噂を聞いたの。彼、ハンス先生が人殺しだって……
彩香の言葉が思い出される。
(僕も先生と同じように、人殺しと言われるのだろうか?)
しかし、ハンスは首を横に振った。
「君は人殺しなんかじゃありませんよ。言ったでしょう? これは、ただの水鉄砲なんです」
「でも……」
解せない井倉にハンスは笑ってその銃を撃って見せた。先端からは勢いよく水が発射された。
「ね?」
「じゃあ、何故、あの人はあそこで倒れているんですか?」
「それはね」
ハンスが倉庫の方を見やった。そこには拘束された男達と、飴井やルドルフの姿が見えた。
彼らは早足で近づいて来た。
「怪我はないか?」
ルドルフが訊いた。彼は井倉が引き金を引くのと同時に狙撃したのだと言う。
「そんな事が……」
井倉は呆然としてその顔を見た。
「これで、井倉絡みのミッションは終了という事だな」
ルドルフがハンスに訊いた。
「そうだね。あとは本物の書類を受け取れば……」
そう言うと、ハンスは澄子を見た。
「澄子ちゃん、随分怖い思いをさせてしまったけれど、これで全部おしまいにしたからね。鍵を渡してくれる?」
「ありがとう。でも、わたし持ってないの」
「どこかに隠したのでしょう?」
ハンスが訊いた。
「それが……」
彼女はもじもじと言う。
「どっかに落としちゃって……」
「何だって? おい、澄子、大事な事なんだぞ。ちゃんと思い出せ」
井倉が言った。
「だって……連れて来られた時には、もうポケットの中になかったの。あの人達はわたしがどこかに隠したと思ったみたいだけど、ほんとはわたしが一番びっくりしてる」
微妙な空気がそこに流れた。
後から来た飴井とルドルフは互いに顔を見合わせて渋い顔をしていたし、ハンスは手の中で水鉄砲を弄んでいた。
「すみません。本当に……」
井倉が詫びた。
「困ったな。あの書類がなければ、奴らの罪が立証出来ない」
飴井が言った。
「そのロッカーってのはどこにあるのかわかってるの?」
ハンスが訊いた。
「多分、井倉の父親が把握してるとは思うが……」
飴井が言う。
「じゃあ、鍵なんて壊しちゃえばいいじゃないか」
ハンスが言う。
「それは最後の手段だ。なるべく騒ぎにならないようにするのがセオリーだ」
ルドルフが言う。
「本当に申し訳ありません」
井倉がまた頭を下げる。
「でも、そのおかげで、澄子ちゃんの命が助かったかもしれないんだ。不幸中の幸いだろう」
飴井が慰める。
「そうだよ。あいつら、わたしのポケットとかバッグとかを引っ繰り返して探してたんだ。それで、どこにもないとわかったら、急に猫なで声で訊いて来たんだ。最初はほんと、殺されるかと思ってすっごく怖かった」
澄子が訴える。
「そんな……」
井倉が震えるように言う。
「人の命を何だと思ってるんだ。たかが鍵一つで……」
井倉はそこまで言うとはっとして訊いた。
「じゃあ、僕が持ってた鍵は何だったんですか?」
「それは、僕のおもちゃ箱の鍵ですよ。あれも大事な鍵には違いありません。早く回収しなきゃ……」
ハンスは急いで倉庫の方へ駆けて行った。
その腕を掴んでルドルフが笑う。
「ほら、これだろ?」
目の前で鍵を振る。
「ダンケ。よくわかったね」
鍵を受け取るとハンスが笑う。
「何年おまえと付き合ってると思う?」
ルドルフも笑う。
「じゃあ、取り合えず奴らを護送し、鍵を探しに行かないとな」
飴井が言う。そこへ、車が来て停まった。降りて来たのはジョンとリンダだ。
「撤収作業を手伝いに来たよ」
彼らはCIAのメンバーだった。
「荷物はどれ?」
リンダが倉庫の付近に倒れている男達を数える。
「全部で7人?」
「そうだ」
ルドルフが頷く。
「OK。もらって行くわ」
リンダとルドルフが男達を護送車に押し込む。
その間に鍵の件をジョンに説明するハンス。
「さすがにそれはコンピュータじゃ探せないな」
「何だ。ジョンでも無理なの?」
ハンスががっかりする。
「でも、トレースなら出来る。足取りを追ってコースを辿ればきっと見つかる筈だ」
そして、飴井とハンス。井倉に澄子は彼女が歩いた道を辿って鍵の捜索を始めた。が、結局、鍵は見つからなかった。
「誰かに拾われたのかもしれない」
念のため、駅や警察にも問い合わせたがそういう紛失物は届いていないと言う。
「少々厄介だな」
飴井が言った。
「ごめんなさい」
井倉に背負われていた澄子がすまなそうに言う。
「いや、いいんだ。君の命が助かったのだから、それが何よりも一番だ」
飴井が慰める。
「仕方が無い。また明日見つけてみる?」
ハンスが言った。
「僕もなるべく協力します」
井倉も言った。
「そうだな。澄子ちゃんも疲れただろう。今日のところは一度帰ろう」
そして、飴井が車でハンスたち3人を送ってくれた。
彼らが家に戻ると美樹や彩香、黒木、そしてフリードリッヒまで出迎えて言った。
「お帰り。ああ、本当に無事で良かった」
「おい、何でフリードリッヒまでまだいるんだ?」
ハンスが言った。
「私にも責任がある。最後まで見届けなくては心配だ」
「おまえがここにいる事の方が心配だよ」
不機嫌な調子でハンスが言う。
「美樹ちゃんにちょっかい出したりしてないだろうな?」
「そんな事するものか。私は純粋に澄子の心配をしていたんだ。それに、返さないといけない物があったからね」
「何か借りたのか?」
「ああ。借りたというより、彼女が落としていった鍵が……」
「鍵だって?」
ハンスがオーバーに身を乗り出した。
「どうしたんだ?」
フリードリッヒが驚く。
「おまえが持っていたなんて……。そいつは大事な証拠品だ。早く出せ!」
ハンスが手を出す。
「君の物ではないのだろう? これは澄子ちゃんに直接渡す」
そう言うと彼はハンスを押しのけ、澄子の手にそれを握らせた。
「あ、ありがとうございます」
彼女は笑って兄を見た。
「確かにこの鍵だよ。あって良かったね、お兄ちゃん」
「ああ。そうだね」
何だか力が抜けて行くようだった。
(本当に、いろんな事があり過ぎて、何だかよくわかんないや)
「井倉……」
黒木が涙を浮かべてその肩を抱いた。
「おまえ達が無事で本当によかった」
「黒木先生……」
井倉も涙を滲ませた。
「じゃあ、みんな、ゆっくり休んでね」
美樹がねぎらう。
「だけど、澄子ちゃんにはどこで寝てもらおうかな? 足が痛いんだから、トイレとかに近い方がいいわよね」
美樹の言葉に井倉が応える。
「僕の部屋を使わせればいいですよ。僕は下に寝ますから……。黒木先生、よろしいでしょうか?」
井倉が訊いた。
「もちろんだとも。和室は広いのだし、寝具も揃っているからね」
黒木も快く承知した。
「ありがとうございます、先生」
礼を言って頭を下げる。
「じゃあ、パジャマとかを用意して来るわね」
美樹がそう言って2階に上がろうとすると、ハンスが追い掛けて来て言った。
「美樹ちゃん、僕ね、すごく頑張ったの」
そう言ってハンスが擦り寄る。
「ほんと、お疲れ様」
「それだけ?」
彼は不満そうな顔をする。
「だって……」
彼女が戸惑う。まだ、皆がそこにいたからだ。
「ねえ、キスしてよ」
甘えたような声で彼が言う。
「ちょっとハンス、何言ってるの? みんなの前なのよ」
「だって僕、頑張ったんだよ。いっぱいなでなでしてよ」
絡み付いて来る彼をそっと放して、彼女が言った。
「じゃあ、ベッドでね」
「ほんと?」
彼はぱっと顔を輝かせ、みんなの方を振り向いて言った。
「じゃ、僕は疲れたので、先にベッドでいちゃいちゃして来ます。みんなも早くベッドに行ってね。グーテナフト!」
それを聞いて美樹は赤面した。
「わたし、何か恥ずかしい事言っちゃったかしら?」
他意はないとわかっていた。が、そんな二人を皆微笑ましく見ていた。
「では、私も引き上げる事にするよ。井倉君、澄子ちゃん、今夜はゆっくり休んでおきたまえ。明日、美味しいケーキを買って来ると約束しよう」
フリードリッヒもそう言って玄関を出て行った。
皆それぞれの部屋に戻り、寝る準備を始めた。
「井倉」
着替えを持って部屋から出て来た時、彩香が呼び止めた。
「あの、何か……」
「澄子ちゃんが無事でよかったわね」
「あ、はい。ありがとうございます」
彼女にそう言われた事がうれしかった。
「それに、ちょっと見直したわ」
「そうなんですか?」
彼女の言葉に井倉は胸がトクンと波打った。
「妹を助けに行くって言った時……。少しだけうらやましいなと思ったの」
「え?」
彩香の表情が硬いままなので、井倉は少し怪訝に思った。
「やっぱり身内にだったら、そうやって即断出来るのね」
「だって……そんなの当然じゃないですか」
意図が汲めないまま、彼は言った。それを見て、彩香は軽く目を伏せた。
「……わたしの時にもそうして欲しかった」
ドアに手を掛けて、彼女が呟く。
「そんな……彩香さんの時だって僕は……」
彼が言い訳しようとした。が、その時にはもう、ドアは閉じてしまっていた。
「彩香さん……」
厚いドアに掘られた彫刻を見つめ、彼の心は重く沈んだ。
(どうしてなんだろう。僕達の思いはどこまで行ってもすれ違ってばかりだ)
階段を降りて、和室の襖を開けると、そこには既に二組の布団が敷かれていた。
「先生、布団なら僕が敷きましたのに……」
井倉が恐縮したように言うと、黒木は笑って言った。
「いや、いいんだ。おまえも、疲れているだろう。今夜はゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」
井倉はそう返事をしたものの、すぐには眠れそうになかった。
「どうだね? 寝酒に一杯」
黒木がウイスキーのボトルを示して言った。グラスは二つテーブルに置かれている。
「はい。いただきます」
何となく断れずにそう言うと、黒木はうれしそうにグラスに酒を注ぐと、その一つを井倉の前に差し出した。
「乾杯しよう」
教授が言った。
「はい」
井倉はグラスを合わせたが、何のための乾杯なんだろうと思った。それはもちろん、妹が無事に帰り、井倉の家の騒動が落ち着いたのだから、彼にとってもうれしい事ではあった。飴井の話では、ある別荘の所有を巡って地主と借り手との間を巡る問題に、外資系の会社が絡み、事がややこしくなったのだと、車の中で聞かされていた。
――その別荘は知らない間に密輸品の倉庫兼取引所として利用されていたようだが、その地主が亡くなり、何も知らなかった息子がおまえの父親の会社に土地を売却した。ところが、その土地にはまだ大量の密輸品が残されていたために大きなトラブルに発展したという事だ
――でも、密輸だなんて犯罪でしょう? 何故、父は警察に訴えなかったんでしょう?
井倉はそれが疑問だった。
――まあ、君の父親にしたってまるきり白って訳じゃない。ぎりぎりの仕事もこなして来た。だが、そこのところは目を瞑ろう。どこでもあるような事だからね。ただ、今回は相手が悪過ぎた。警察も国も手を出せない黒幕が付いていたんだ
――黒幕?
――甲山事業グループさ
――あの、有住財閥のライバルとも言われている?
――そうだ。その傘下である佐原建設が関与していたんだ。しかも、昨年合併した外資系企業を経由しての密輸品、主に銃器類を扱っていたらしい。つまり、犯罪の隠れ蓑という訳さ
――そんな……
井倉の父は二重登記簿の存在を知り、すり替えられた契約書類を入手した。そこから脅迫が始まったのだと言う。
――何て事だろう。親父は何でもっと早く手を打たなかったんだろう
――そんな生やさしい問題じゃなかったのさ
飴井が言った。
――下手な事をすれば命取りになるからな。逆に警察に行かなくてよかったのかもしれない。だが、個人の力ではそこまでだ。
――では、飴井さんなら何とか出来るんですか?
――いや。俺にもどうにも出来ないさ。だが、今はジョンやルドルフの協力が得られる。国際警察という例外が生きたという訳さ
――じゃあ、本当にもう、これで終わりなんですね?
飴井が頷く。二人が話している間、澄子は車の後部座席で、兄に寄りかかって眠っていた。余程疲れたのだろう。彼はそっと妹の寝顔を覗き込んだ。子どもの時からあまり変わっていない。だが、こんなに近くで顔を見たのは久々だった。
「おめでとう!」
唐突に黒木が言った。
「音楽祭での演奏。あれはなかなかのものだった。本番であんな演奏が出来るとは、さすがハンス先生の教えを受けただけの事はある。いや、それは、きっと運命なのだろう」
そう言うと黒木は一気に酒を煽った。
「運命って、その……」
井倉が戸惑っていると、黒木は衒いも無く言った。
「おまえは、どこか特別だった。それは、多分ハンス先生も感じていたのだろう。ちょっと見には地味だし、演奏にしても、皆を魅了する天才といったタイプではない。だが、光るものがある。それが何か、私にもなかなか見抜く事が出来なかった。が、どうしても切り捨てられなかった。今にして思えば、おまえを、思い切ってハンス先生のレッスンに出してみて良かったよ。私独りの力では、こんなに早く開花させる事など出来なかっただろう」
そう言うと教授は自分のグラスにお代わりを注ぎ、井倉のそれを見た。が、まだほとんど減っていなかったので、ボトルを置いた。井倉はそんな師の手をじっと見つめてぼうっとしていた。まだほとんどグラスに口を付けてもいないのに、顔がかあっと熱くなっていた。
「知りませんでした。先生が僕の事、そんな風に思ってくださってたなんて……。いつも厳しく叱られてばかりだったから、僕には才能ないのかと……。もう、諦めた方がいいんじゃないかと何度も思いました」
「才能がないなら、叱ったりせんよ」
黒木はふとグラスを見つめた。
「先生……」
「音楽祭の後、いろいろあったからな。すっかり言いそびれるところだった」
教授がしみじみと言う。
「あ、ありがとうございます。本当に……」
井倉は胸がいっぱいになった。そして、目には涙も溜まっている。
「いや、礼を言いたいのは私の方だよ。いつか、息子とこうして酒を酌み交わすのが夢だった。だが、息子はもう帰って来ない。だが、井倉、おまえや彩香君、大勢の弟子達が私の息子や娘になってくれる。その成功が私の夢になったんだ」
教授の目にも涙が浮かんでいた。
「先生……」
その瞳から涙が溢れ、黒木はその肩にそっと手を乗せて言った。
「今夜はもう休もうか」
そして、二人は並んで布団に入った。
翌日。ハンスは朝から元気がなかった。
「あれ? ハンス、どうしたの? 目が赤いよ」
朝食の席で澄子が訊いた。
「昨夜はずっと美樹ちゃんといちゃいちゃするつもりでした。なのに、美樹ちゃんが言うのです。蝉さんは交尾すると死んでしまうって……。とても可哀想です。それに、僕はまだ生きていたい。だから諦めたんです。ああ、井倉君、君の事疑って悪かったですね。井倉君も彩香さんも全然そんな事してなかったのに……」
「あ、いえ。別に気にしていませんから……」
井倉はどう答えたらよいのかわからなかったが、取り合えず、そう返事した。
「そうですね。わたしも井倉と心中するつもりはありませんので……」
彩香も言った。そんな彼らの顔を交互に見て澄子が訊いた。
「何? お兄ちゃん達、そんな事しようとしてたの?」
澄子が驚いた顔を向ける。
「違うよ。ハンス先生だってそんな事なかったと言ってただろ?」
慌てて否定する井倉。
「そうなんだ。でも、二人、とってもお似合いだと思うんだけどな」
澄子がにやにやと笑う。
「澄子、そんな事言ってると、足が痛くてもおんぶしてやらないぞ」
井倉が睨む。
「もう、お兄ちゃんの意地悪!」
澄子が頬を膨らませる。
「澄子ちゃん、朝はトーストで大丈夫?」
美樹が来て訊いた。
「うん。大好きです」
澄子が頷く。
「ところで、ハンス先生。実は今朝早くに、ヘル ケスナーから連絡がありましたの。井倉と澄子は戻っているかと……」
彩香が不審そうな表情を浮かべて言った。
「あ、そうでした」
ジャムの瓶を開けようとしていたハンスが笑う。
「あは。すっかり忘れていたです。でも、ちゃんと伝えてくれたのでしょう?」
彼が訊いた。
「ええ。ハンス先生もご一緒に帰っていると伝えましたけど……」
「なら、大丈夫ですよ」
ハンスは笑って頷くと、黒木が運んで来たココアを受け取って飲んだ。が、井倉はまた胸の鼓動が速くなった。
(そういえば、ハンス先生はあの時、僕か澄子が来るまで、ここで待ってろって言ってた。じゃあ、あの人、ずっとあそこで待ってたんだ)
井倉は同情した。
その日。黒木は理事長に会うために出掛けた。その間に、井倉と彩香はそれぞれ基礎練習を行っていた。リビングのピアノを弾こうとする井倉に、ハンスが声を掛けた。
「井倉君、今日はあまり無理しなくてもいいですよ」
「はい。でも、基礎はやっておかないと……」
「熱心ですね。それは、とても良い事です。でも、疲れ過ぎるのはやっぱり良くありませんからね」
そう言って笑い掛けるハンス。射し込む光はまだ強く、夏の名残を映していた。
彩香は地下室のピアノを弾いていた。
基礎練習を終えてしまうと、次のスペシャル番組で弾く課題の曲を試してみた。ショパンのエチュード「革命」。始めは記された速度で、次には高速で……。ミスはなかった。しかし、彼女は満足出来なかった。
(何がサイボーグお嬢様よ)
まるで人間ではないように言われるのが気に入らなかった。機械はミスを犯さない。それくらい正確に弾ける。嘗ての自分なら、喜んだかもしれない。しかし、今はとても素直に喜ぶ事など出来なかった。
――君の演奏は素晴らしい。テクニックは完璧だし、ミスがない。まるでロボットみたいに、何の感情もなく、つまらない
「ハンス先生……」
場違いなのではないかと彩香は思った。
(そうよ。ここにいるべきは井倉であって、わたしではないのかもしれない……)
彩香はピアノの蓋を閉めると椅子から立ち上がった。
「帰ろう。ここには、わたしの居る場所なんてないんだわ」
思わずそう言って振り返ると、そこにハンスが立っていた。
「帰る? どこへ帰ると言うのですか?」
「家にです。もうここにいても仕方がないようですし……」
「何故?」
「それは……」
彩香は少しだけ睫を震わせ、じっとハンスを見つめた。
「わたしはまだ……。最初に出された課題さえもクリアしていません。即興で弾くとか、豊かな感情表現とか……」
ハンスは黙って彼女を見ていた。
「わたしは、いつだって楽譜通りに弾いています。どんな細かい記号も忠実に……。それ以上どうしろとおっしゃるのか、わたしには理解出来ません。井倉なら……。きっと先生の要望に応える事が出来るのでしょうね。だから、先生は井倉の事ばかり可愛がって……。いいえ。ひいきしているなんて思いません。わたしが未熟だからいけないのだとわかっています。でも、ここにいるのは辛いんです。井倉と比べられるのが……。はっきりとおっしゃってください。わたしがここに居るのは迷惑だと……」
「そんな事を僕に言わせたいのですか?」
そこに彼の感情は見えなかった。が、彩香は軽く握った手を胸に当て、唇を噛み締めた。
「お願いします。本当の事を教えてください。先生は、わたしの事……どう思っていらっしゃるのか……どうしても知りたいんです」
「そんな事を聞いて君はどうしたいのですか?」
「わかりません。でも、もし先生に嫌われているなら……」
目には涙が滲んでいた。
「どうして? そんなに僕に嫌われる事が怖いですか?」
「だって……」
一筋の涙がその頬に伝う。
「でも、ピアノは君を嫌いになったりしませんよ」
「先生……」
「君は逃げたいだけなんです。だけどね、たとえ僕から逃げられたとしても、自分自身から逃げる事は出来ません。そして、ピアノからもね」
「ハンス先生……」
彼は静かに近づくとそっとピアノの蓋を開け、椅子に彼女を座らせた。それから、やさしく肩を抱き寄せ、彼女の右手に自分のそれを重ねると白鍵に置いた。
「愛しています。君も、君が奏でるメロディーもみんな……。君は忠実に楽譜を再現する事が出来る貴重な才能の持ち主だ。それは他の誰とも比べられない。それを、僕はとても愛しいと思う」
その時、部屋のドアが開いて井倉がハンスを呼んだ。
「先生、ヘル ルークがお見えになっているんですけど……」
が、言葉はそこで途切れた。
「わかりました。でも、少しの間、待っていて欲しいと伝えてもらえますか?」
ハンスが振り向いて言った。その腕は彼女の肩に回されている。井倉はそこで固まっていた。
「井倉君? どうかしましたか?」
井倉の手は震えていた。彼女の目に涙が伝っているのを見てしまったからだ。
(彩香さんが泣いている。いったいどうして……。まさか先生が……!)
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